くすりのまち道修町と船場周辺
くすりのまち道修町と船場周辺
大阪の中世を784(延暦3)年の長岡京遷都以降とする1)。いつまでを中世とするかについては、織田・豊臣時代を中世に入れるか近世に入れるかが議論のあるところであるが、ここでは便宜的に1615(元和元)年の大坂夏の陣までを一応の時代範囲とする1)。約800年余りの期間である。そのうち前半の約400年の間は、大阪市域についての情報量が少なく、不明な部分も多い1)。
本稿においては大阪(大坂)市中の歴史の始まりをこの後半400年の間に該当する石山本願寺(大坂本願寺)創建時においた。
また、文中“大阪”と“大坂”の使用については、引用または参考文献などの典拠によった。したがって、全体として整合していないか所についてはご容赦いただきたい。
なお、大阪のことを現在では「大阪」と記すが、明治維新の前までは「大坂」と書くことが多く、「大阪」にかえさせたは明治の変革、ご一新であると考えられている2、3)。江戸と明治の境目で、「大坂」と「大阪」を使い分けるのが、今の常識となっている2、3)。しかし、江戸時代の終わり頃から「大坂」と「大阪」でわけるのも、一種の便法でしかありえないことからも、みな「大阪」でよいという考え方もある2)。
参考または引用文献
1)大阪市史編纂所編、“1.荘園制の時代 第3章 中世の大阪”、大阪市の歴史、p.68-68、大阪市(1999)
2)井上章一、“「大坂」は「小坂」から 第八章 歴史のなかの大阪像”、大阪的 「おもろいおばはん」はこうしてつくられた、幻冬舎新書(2018)
3)ロム・インターナショナル編、“第五章 変わった地名・不可解な地名のエリアを歩く― 地名から浮かび上がる「大阪」の謎を解く 「坂」から「阪」へと表記が変わったのは、いつからか?―大坂と大阪”、大阪を古地図で歩く本、河出書房新社(2016)
Ⅰ.大坂三郷
大坂の市中は幕府の派遣した大坂町奉行支配の下、大坂三郷(おおさかさんごう)は江戸時代の大坂城下における3つの町組の総称であり、北組、南組および天満組の3組から成る1~5)。
三郷の形成については、1583(天正11)年、豊臣秀吉が大坂城の築城に引き続き、1586(天正14)年からは二の丸の工事を行い、続いて三の丸・惣構堀が整備される中で、城の西方に新たに船場・島之内の砂州を開き、城下町として整備された1)。加えて、1596(慶長元)年の大地震で堺が壊滅的な被害を受け、その機能の代替として船場が大改造され、政治、経済、流通の中心地となっていった1、4)。
江戸時代になってからも、大坂の陣を経て堀の開削が進み、1615(元和元)年道頓堀が完成した頃にはほぼ三郷の形が整っていた1)。
江戸時代の「大坂町」とはこの3地域を指し、現在の大阪市北区の南半分くらいから中央区全体に西区の東半分くらいを足した範囲に当たり、天満より北や、難波・天王寺あたりの地域は含まれない2)。
現在の大阪府大阪市中央区の大半・西区の東部・北区の南部を中心に広がり、浪速区・大正区・此花区・福島区・都島区の各一部にもおよんでいた2、6)。
大坂城代・京橋口定番・玉造口定番・大坂町奉行・大坂代官などの役人の居住地や寺院・神社の土地などは大坂三郷には含まれず、大坂三郷はあくまで町人の住んでいる地域を指した2、7~9)。
おおむね本町通を境に北組と南組に分かれ、大川・古川以北が天満組となる。ただし、堀江は3組錯綜、玉造や下船場の阿波堀川以南は北・南2組錯綜、南端の難波新地や日本橋が北組といったように、新地開発で後に拡張された地域などはこのとおりではない2)。
初期には伏見組の存在が確認されるが、次第に北組と南組に編入されて消滅したと思われる2)。三郷の町数は600から620の間で増減を繰り返し、城下の拡張が落ち着きを見せる1782(天明2)年以降、幕末までの年間における町数は、北組250町・南組261町・天満組109町である1,2)。
三郷各組から長にあたる惣年寄が選出され、惣会所とその配下となる惣代などが置かれた。各町では町年寄が選出され、町会所とその配下となる町代などが置かれており、組は町と大坂町奉行との中間組織となっていた2、10)。惣会所の所在地は、北組が平野町三丁目、南組が南農人町一丁目(現農人橋一丁目)、天満組が天満七丁目(現天満四丁目)2)。また、毎年各組毎に宗門人別改帳を寺社役与力に提出する「巻納め」という行事があり、北組は本願寺津村別院(北御堂)、南組は真宗大谷派難波別院(南御堂)、天満組は真宗大谷派天満別院(佛照寺)で行われた2、11)。
1869(明治2)年に東大組・南大組・西大組・北大組の4地域に再編され、のちに東区・南区・西区・北区となった2、6、12)。
三郷の組にはある程度の自治が認められ、町の行政を担当するため、町人の中から選ばれた惣年寄達が月番で惣会所に詰め、下部組織には町年寄や惣代が実務を担当した1)。また、大坂町奉行所のもと年貢の取り立てやお触れの通達、町年寄の任命、火消しの人手の指揮など、現在の司法、消防、警察などの業務も担当した1)。
参考または引用文献
1)大阪三郷惣会所跡
2)大坂三郷 – Wikipedia
3)“古地図は誘う 大坂三郷町絵図 町人一色の町”、産経新聞(大阪版 朝刊)、26面、2004年11月1日
4)矢内 昭、“大坂三郷の形成過程”、大阪の歴史、9号、12-38、大阪市史編纂所(1983)
5)井上 薫編、“大阪の復興 二 天下の台所 天下の台所 近世の大阪”、大阪の歴史、p.248-252、創元社(1986)
6)大阪町名研究会、大阪の町名-大坂三郷から東西南北四区へ-、清文堂(1977)
7)渡邊忠司、“大坂三郷の「町人」と借地人 一、町民の構成 Ⅱ 町の住民と構成”、町人の都 大坂物語―商都の風俗と歴史―、15-17、中公新書(1993)
8)内田九州男、“大坂三郷の成立-市街地の形成を中心として-”、大阪の歴史、7号、38-63、大阪市史編纂所(1982)
9)内田九州男、“近世初期大坂三郷の地子について”、大阪の歴史、27号、1-25、大阪市史編纂所(1989)
10)新修大阪市史編纂委員会編、“第四節 三郷および自治組織の展開 第二章 復興と整備”、新修大阪市史 第3巻、p.248-269、大阪市(1989)
11)新修大阪市史編纂委員会編、“第五節 寺社金融と三郷の質屋仲間 第四章 天下の台所”、新修大阪市史 第3巻、p.802-812、大阪市(1989)
12)新修大阪市史編纂委員会編、“第六節 大阪三郷と平野郷の構成と町家と農家の家構 第四章 天下の台所”、新修大阪市史 第3巻、p.1065-1092、大阪市(1989)
13)新修大阪市史編纂委員会編、“第七節 工業の展開 第四章 天下の台所”、新修大阪市史 第3巻、p.740-772、大阪市(1989)
14)小田康徳、“大坂三郷の廃止と四大組の設置日について-”、大阪の歴史、7号、64-71、大阪市史編纂所(1982)
Ⅱ.船場
大阪大学名誉教授故宮本又次氏は「船場」をもって、次のとおりコメントをされている1)。
船場はいわば大阪の臍(へそ)である。伝統的社会(The traditional society)が、かつてそれにたよったように飛躍(Take-off)後の「産業的社会」はそれにばかりたよっているわけではない。水の都から煙の都に転化した大阪は、もはや伝統的船場の機構・船場の環境に郷愁以上のものをも持たないであろう。
しかしそれは矢張り臍がはらになければ締めくくりがつかないように、大阪に船場がなかったら太黒柱のない建物のように、中心がなくなって、妙なものになるだろう。
その上、船場は新しい大阪、「産業的社会」の大阪において、いまもモリモリと機能しているのである。それは新しく神経中枢になり、また心臓になって来ている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・かくて船場もまったく変貌した。旦(だん)さんやお家(いえ)はんや御寮(ごりょう)さんの船場はもうどこにもない。
しかしなお、歴史は残る。臍は臍として厳としてある。船場だからツンとすましたオフィスの街でもないし、単なるビジネスの巷(ちまた)でもない。それは『商内(あきない)』の場であり、今も商戦の戦場である。そこでは観念や数字だけが動いているのではない。それはビュローではなくて、お店なのだ。モノそれ自体、実質がピチピチパチパチ動いているのである。形式ではなく実質である。ひたむきなる実業の迫力。それは商売(しょうばい)であり、あきない(、、、、)である。なお、船場の格式ばった古さは温存されてはいるが、それでいて、自在にして奔放な気骨がある。そこには偽善性はない。文化人やインテリ層にあるような表裏の不一致がない。ロジクばかり空転して、実行のともなわない三等重役的経営者の脆弱性は見られない。あきないの道ただ一筋に一つの執念でうごいていく商売人の情熱。そのひたむきな純一性には、まったく頭がさがるのだ。
これはどこからくるのか。永い永い歴史、そして伝統がこれを育て上げたという外はあるまい。古きが故に常に新しく新鮮なる血液が循環し、片時(へんじ)といえども停滞することを知らぬのである。
船場の街区はどの一角をとっても、古い歴史の匂いのせぬ所はない。一切が史蹟であり、事件と出来事の積み重ねなのである。それぞれの通り、それぞれの筋、そして横町が、小路が独自の風格を有し、その特有の色彩によって万人の心を魅了し去るのである。
「もっさり」しているようでも、本当は「こうと」な色調がただ酔っていて、その趣味(グー)と典雅(エレガンス)に船場商人の誇りがあるのである。
いま技術革新は、そして産業構造の変化新しい経営者精神を要求していよう。日本とても、めざましい経済成長率を謳歌しつつすでに、大衆的大量消費時代(The Age of High Mss-Consumption)に一歩をふみこんでいる。経済の原理は、「しまつ」や「もったいない」ではすまなくなっている。船場もまた新しい人間類型をうち出すであろう。しかし、大阪の臍はなお臍としてのころう。地域や風土や環境の持つ雰囲気はそうやすやすと消えさるものではない。
『宮本又次、船場 風土記大阪 第一集、ミネルヴァ書房(1960)』
前述の内容から、往時の「船場」とは多少なりとも趣を異にするところがあろうかとは思いながらも、やはり未だ船場の気骨は息づいていることが感じられる。
東は東横堀の西岸、南は長堀の北岸、西は西横堀の東岸、北は大川および土佐堀川に沿える一区画、南北約2km、東西約1kmのエリアを「船場」といった。大阪の中枢地帯である1、2)。
「船場」という地名については東横堀川の船着き場だったことに由来するという。また、船場は古来戦場になった戦場である。これが船にかわったともいわれる1)。
本町通を境として、以北を北船場、以南を南船場といった1)。そして、江戸時代の北組・南組・天満組の三郷中、北組(北郷)は本町の北を、南組を本町の南をいった1)。
東横堀川に架かる本町橋
船場の歴史は豊臣秀吉が大阪城の城下町の整備にあたって、大阪湾に向かって広がる低湿地帯を埋め立てたことに始まる2)(1598(慶長3)年)。
1615(慶長20)年、大阪の城下町は大阪夏の陣によって、焼き尽くされた2)。その復興をになったのは、徳川家であった2)。
大阪を江戸幕府の直轄地とし、市街地を復興・開発にあたり、河川を掘削・整備し、大阪湾にむかって拡張した2)。交通路も整備され、船場は大阪湾から瀬戸内海に臨んで、地政学的な有利さを利用し、西国からの特産物などの集積地に発展していった。
当時の船場においては、生糸、絹織物、ガラス器具(ギヤマン)や薬種などの輸入品3~6)、および金、銀、俵物として知られた輸出品を売買する商人たちの活躍が町に活気を呼んだ2、4、5)。
高麗橋西日本の交通路の拠点としての機能を有するようになり、今橋には両替商に呉服商、北浜には秤座、銅座や俵物を買い付ける俵物会所、さらには道修町には薬種問屋、伏見町には唐物を扱う商家が各々集住していった2)。
堺筋東側 コニシ株式会社(旧小西儀助商店)
船場における町人のなかには、やがて財力を背景に町人文化にも花が咲いた2)。
富永(とみなが)仲基(なかもと)、山片蟠(やまがたばん)桃(とう)らを生んだ「懐徳堂」(1724(享保9)年設立)、大阪で最大の私塾「泊園書院」(1825(文政)8年設立)、蘭学者緒方洪庵による「適塾」(1838(天保9)年)が開かれた2)。
多くの学問所が設立され、江戸とは異なり、独自でユニークな取組みが展開されていった2)。
その後、明治維新をむかえても、船場のにぎわいは継続した。
堺筋を中心とする交通網も市電が開通するなど発達し、繊維問屋や製薬会社の集積地としてのにぎわいをみるにいたった2)。
また、新しく百貨店ができ、金融機関や林立するなど、「大大阪」むかえ、文化と経済の両方で船場の隆盛をみるにいたった7~15)。
三越閉店時(2005年5月5日) 三越跡地のキタハマプラザ(現在)
参考または引用文献
1)宮本又次、船場 風土記大阪 第一集、ミネルヴァ書房(1960)
2)“大大阪の華 船場再発見”産経新聞(大阪版 朝刊)、23面、2017年10月28日
3)岡 泰正、“大阪と長崎 阿蘭陀・大坂エキゾティックルート― 長崎から大坂へきた輸入工芸品の一例 ―”、57号、38-43、大阪春秋社(1989)
4)廣山謙介、“大阪と長崎 長崎と大阪 ― 鎖国時代の国際貿易と決済商品 ―”、57号、44-47、大阪春秋社(1989)
5)今井典子、“大阪と長崎 銅が結ぶ長崎と大阪”、57号、48-53、大阪春秋社(1989)
6)米田該典、“大阪と長崎 薬の街 大阪と長崎”、57号、61-65、大阪春秋社(1989)
7)香村菊雄、定本 船場ものがたり、創元社(1986)
8)香村菊雄、“特集 堺筋・紀州街道 堺筋わが故郷”、 71号、19-23、大阪春秋社(1993)
9)三島佑一、“特集 堺筋・紀州街道 堺筋と私”、71号、24-25、大阪春秋社(1993)
10)大阪市立開平小学校教職員編集、わが町 船場 ―いま・むかし―、大阪市立開平小学校(1994)
11)伊勢田史郎、船場物語、現創新書(1982)
12)近江晴子、“大阪の建物と町並-大阪三越新築のころ”、39号、128-131、大阪春秋社(1984)
13)“三越、改革ひと区切り 大阪店あす閉店 315年の歴史に別れ”、産経新聞(大阪版 朝刊)、7面、2005年5月4日
14)“思い出 求めにぎわう 三越大阪店 きょう幕”、産経新聞(大阪版 朝刊)、28面、2005年5月5日
15)橋爪節也、大大阪イメージ 増殖するマンモス/モダン都市の幻像、創元社(2007)
16)宮本又次、“第二十章 西船場界隈由来記”、大阪経済文化史談義、文献出版(1980)
Ⅲ.くすりのまち道修町
道修町には大小の製薬会社が軒を連ね、くすりの町として名高い1、2)。この町の少彦名神社は通称“神農さん”で知られ、毎年11月22日、23日の神農祭では笹に飾られた張子の虎が、厄除けのお守りとして授与される。
道修町のまちなみ(堺筋側をのぞむ)
「道修町(どしょうまち)」の名称と読み方に関する由来については、種々の説がある3~7)。ひとつは、このあたりは往古「道修谷」と呼ばれていたことから、このことに由来するというものである。1679(延宝7)年の『中懐難波すすめ』でも「道修谷せんたんの木橋筋」と出ているし、『摂陽奇観』によれば、船場は往昔所々に谷のような高低があったというから、ここもそのような地であったかもしれない。第二の説は、道修寺というという寺があったことによるというものである。近世初期には寺院が北船場に多くあったといわれることから、道修寺も存在したかもしれない。第三としては、北山道修という人物がここにいたからだという説である。伝えるところでは北山道修は、中国の馬栄宇という医師が来朝して長崎で産んだ子で、大坂に出て医院を開き、その門前に薬種の店が集まるようになり、道修町となったという。もっとも北山道修がいたから道修町ではなく、道修谷に来たから彼が道修を名乗ったという説もある。第四の説はいささかのこじつけであるが、道修町は修学の地であったからだいうものである。私塾がこあたりに多く、懐徳堂も近くに位置していたことから出た説と思われる。
「道修町」という町名自体、すでに豊臣時代の1588(天正16)年には資料に現れ、江戸時代前期の1658(明暦4)にははやくも三十三件の薬種屋の存在が確認される1、8)。
また、道修町に薬種問屋が集住するきかっけとなったのは、寛永年代に堺の小西一族の小西吉右衛門が二代将軍秀忠の命により、道修町一丁目に移り、薬種屋を開いたことに始まる。この家は道修町にける小西姓の薬種屋の本家と仰がれ、かつ長崎本商人のひとりとして重きをなした4)。
その後の1666(寛文6)年には、薬種屋は3倍以上に膨れ上がり、道修町は急速に“くすりの町”としての体裁を整えていく1)。
1722(享保7)年になると、百二十四軒に増えた薬種屋が同20年には「薬種中買仲間」という正式名称を獲得する1)。そして、中国船やオランダ船が長崎に持ち込む輸入品の薬種(唐薬)は、一旦大坂に送られ、道修町の「薬種中買仲間」が品質検査を行った後、「仲間」内で入札して買い取り、その後、大坂市中や江戸をはじめとする諸国の薬種問屋に出荷されるという流通システムが確立する1、9)。
一方、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は享保の改革の一環として、日々増大する薬の需要に対し、薬種の国産化を推進し、高品質の薬種を流通させるため、江戸・駿府・京都・大坂・堺の薬種屋を江戸に召集して講習会を開き、1722(享保7)年、五都市に「和薬改会所」設置した5、8)。大坂では当初、「仲間」の薬種屋百二十四件が交代でここに詰め、唐薬のみならず和薬の流通にも関与することとなったが、翌年和薬専門の問屋二十軒を新たに設立して、以後会所の業務を移管した1、5)。
また、舶来の薬種を取扱う問屋は唐薬問屋と呼ばれ、享保年間以降は道修町がその中心となった3)。
11月22日、23日の神農祭の風景
道修町の薬種商のなかには現在まで継承されている老舗がある。田辺五兵衛家10)(享保年間より)、武田長兵衛家11)(天明年間より)、塩野義三郎家12)、小野市兵衛家13)および小西儀助家14)などがその例である3,5,6)。
道修町の神農祭がなされる少彦名神社には、少彦名命すなわち薬祖神を祀られており、和薬改会所の設置と薬種株の公認により、その責任の重大なることに感じ、この薬祖神を祀ることになったようである3)。少彦名神社を「神農さん」と呼ぶのはもともと中国の医薬の祖神農氏を祀っていたことによる。1780(安永9)年に少彦名命神を奉斎するようになったが、世人はそれでも「神農さん」と称し、現在にいたっている3)。
道修町はまた文運も盛んな町でもあった3、5)。松尾芭蕉とならび元禄俳壇を固めた小西来山は薬種商の小西一統から出たものである3、5、6。「大坂も大坂真ん中に住みてお奉行の名さえおぼえず年暮れぬ」という来山の句は大坂町人の心意気を示すものとして有名である。同じ頃の芭蕉門下の俳人槐本之道(えのもとしどう)は道修町一丁目の伏見屋久右衛門という薬種商であったし、また歌舞伎の脚本家、俳人として名高い並木五瓶は道修町の木戸役泉屋に生まれたと伝える3、5)。
明治になると、正岡子規一派の俳人が多く現れた。うち青木月斗は神薬痛快丸・天眼水本舖の「青木薬房」に生まれ、また京都派の鳥道素石は漢薬問屋の生まれであった3)。文人以外では医学者の高安道純がいた。緒方洪庵などに学んだ後、高安病院を開業した。その子弟三郎・道成・六郎の三兄弟が劇作、能楽研究者として活躍したことは有名である3、4)。また道修町が谷崎潤一郎の『春琴抄』の舞台となっていることはあまねく知られているところである7、15)。
参考または引用文献
1)“くすりの町 薬種の全国流通拠点 おおさか図像学29 近世の庶民生活”、 産経新聞(大阪版、夕刊)7面、2004年2月27日
2)“道修町「くすりの町」 江戸時代から脈々と ゲノム創薬 世界に挑め”、産経新聞(大阪版、朝刊)7面、2002年10月31日
3)大阪町名研究会編、“道修町一~五丁目 東区 第二部 町名のうつりかわり”、大阪の町名―大坂三郷から東西南北四区へ―、p.138~142、清文堂(1977)
4)宮本又次、“道修町と道修谷”、大阪の歴史、2号、76-79、大阪市史編纂所(1980)
5)宮本又次、“第四章 伏見町・道修町の巻”、船場 風土記大阪 第一集、p.163-218、ミネルヴァ書房(1960)
6)宮本又次、“第四章 百足屋又右衛門と近江屋長兵衛”、大阪商人、p.86-127、講談社学術文庫(2010)
7)“谷崎の創作と二人のおんな 道修町 大阪 川と坂の物語”、 産経新聞(大阪版、朝刊)23面、2008年12月8日
8)野高宏之、“和薬改会所―幕府の薬種政策と薬種商の対応―” 、大阪の歴史、60号、53-92、大阪市史編纂所(2002)
9)米田該典、“大阪と長崎 薬の街 大阪と長崎”、57号、61-65、大阪春秋社(1989)
10)田辺製薬株式会社 社史編纂委員会編集・企画、田辺製薬三百五十年史、田辺製薬株式会社(1983)
11)武田薬品工業株式会社 社史編纂委員会編集兼発行、武田百八十年史、武田薬品工業株式会社(1962)
12)塩野義製薬株式会社、シオノギ百年、塩野義製薬株式会社(1978)
13)小野薬品工業株式会社、小野薬品300年の歩み 図版でたどる、小野薬品工業株式会社(2017)
14)コニシ120年記念社史編纂室、コニシ株式会社、コニシ120年のあゆみ、コニシ株式会社(1994)
15)三島佑一、“船場道修町”、大阪学講座 なにわ事物起源、p.77-87、大阪市・㈶大阪都市協会(1993)
Ⅳ.くすりのまち道修町と船場周辺
本稿においては、大阪(大坂)という地域の成り立ちに関連し、商業・産業、文化および教育などに関連する史跡を船場とその周辺に限り、掲載した。
目 次
1.大阪ガラス發祥之地 2.造幣局 3.旧川口居留地 4.大阪舎密局址 5.大阪英語学校跡 6.石山本願寺(大坂本願寺)推定地 7.大坂城/大阪城 8.大阪銀座跡 9.少彦名神社・くすりの道修町資料館 10.大阪薬科大学発祥の地 11.懐徳堂旧阯碑 12.銅座の跡 13.適塾 14.除痘館跡 15.北組惣会所跡・南組惣会所跡 16.八軒屋船着場の跡 17.大阪会議開催の地 18.大阪金相場会所跡 19.大阪商法会議所跡、五代友厚君像、大阪証券取引所ビル 20.大阪俵物会所跡 21.淀屋の屋敷跡 22.手形交換所発祥の地 23.松尾芭蕉終焉の地 24.住友銅吹所跡 25.安井道頓・道卜紀功碑 26.ボードインゆかりの地
Ⅴ.その他参考資料【順不同】
1)横田健一編、要説日本史、創元社(1978)
2)詳説日本史図録編集委員会編、山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2008)
3)歴史学研究会編、日本史年表 増補版、岩波書店(1993)
4)宮本又次、商品流通の史的研究、ミネルバ書房(1967)
5)宮本又次、京阪と東京、青蛙書房(1974)
6)宮本又次、上方と坂東、青蛙書房(1969)
7)宮本又次、近世大阪の経済と町制、文献出版(1985)
8)宮本又次、町人社会の学芸と懐徳堂、文献出版(1982)
9)宮本又次、近代大阪の展開と人物誌、文献出版(1986)
10)宮本又次、キタ 中之島・堂島 曽根崎・梅田 風土記大阪 第二集、ミネルヴァ書房(1964)
11)宮本又次、大阪繁盛記、新和出版(1973)
12)宮本又次、日本近世問屋制の研究、刀江書院(1971)
13)宮本又次、大阪文化事情、文献出版(1979)
14)小林 茂、脇田 修、毎日放送文化叢書4 大阪の生産と交通、毎日放送(1973)
15)宮本又次、安岡重明、森 泰博、藤田貞一郎、作道洋太郎、宮本又郎、毎日放送文化叢書5 大阪の商業と金融、毎日放送(1973)
16)北崎豊二、武知京三、芝村篤樹、天川 康、小田康徳、、毎日放送文化叢書6 大阪の産業と社会、毎日放送(1973)
17)脇田 修、塙選書88 元禄の社会、塙書房(1980)
18)脇田 修、近世封建社会の経済構造、御茶の水書房(1963)
19)脇田 修、日本近世都市の研究、東京大学出版会(1994)
20)脇田 修編著、近世大坂地域の史的分析、御茶の水書房(1980)
21)脇田 修、織田政権の基礎構造 織豊政権の分析Ⅰ、東京大学出版会(1975)
22)脇田 修、近世封建制成立論 織豊政権の分析Ⅱ、東京大学出版会(1977)
23)脇田 修、秀吉の経済感覚、中公新書(1991)
24)乾 宏巳、近世大阪の家・町・住民、清文堂出版(2002)
25)幸田茂友、江戸と大阪、冨山房百科文庫(1995)
26)梅渓 昇、たいまつの火-近代史研究から照らし出されるもの、なにわ塾叢書(1998)
27)米田該典、洪庵のくすり箱、大阪大学出版会(2001)
28)石田純郎編著、蘭学の背景、思文閣出版(1988)
29)石田純郎編著、緒方洪庵の蘭学、思文閣出版(1992)
30)梶山彦太郎、市原 実、“大坂平野の発達史-14Cデータからみた-、地質学論集、第7号、101-112、1972
31)市原 実、“特集『第四紀』 資料・第四紀の日本列島 大阪層群と大阪平野”、URBAN KUBOTA、11号、26-31、1975
32)市原 実、藤野良幸、“特集「淀川と大阪、河内平野」1.大阪平野の発達史”、URBAN KUBOTA、16号、2-15、1978
33)梶山 彦太郎、市原 実、大阪平野のおいたち、青木書店(1986)
34)村川行広、大阪城の謎、学生社(1970)
35)山根徳太郎、難波の宮、学生社(1970)
36)岡本良一、大阪城、岩波新書(1970)
37)岡本良一、大坂冬の陣夏の陣、創元新書(1972)
38)鋤柄俊夫、“小特集 天守閣・城・城下町―秀吉の大坂、市民の大阪― 中世の都市と近世の都市―大坂城下町の一隅から―”、歴史科学、1-13、No.157、大阪歴史科学協議会(1999)
39)北川 央、“小特集 天守閣・城・城下町―秀吉の大坂、市民の大阪― 大阪城天守閣―復興から現在にいたるまで―”、歴史科学、14-24、No.157、、大阪歴史科学協議会(1999)
40)内田九州男、“大会特集号 近世都市大坂の成立をめぐって 秀吉の遷都構想と大坂の都市建設”、歴史科学、1-14、No.176、、大阪歴史科学協議会(2004)
41)豆谷浩之、“大会特集号 近世都市大坂の成立をめぐって <コメント>内田九州男の近世都市大坂城成立史研究について”、歴史科学、15-20、No.176、、大阪歴史科学協議会(2004)
42)八木 滋、“大会特集号 近世都市大坂の成立をめぐって <コメント>慶長・元和期の町と町人”、歴史科学、21-27、No.176、、大阪歴史科学協議会(2004)
43)内海寧子、“大会特集号 近世都市大坂の成立をめぐって <討論要旨>、歴史科学、28-30、No.176、、大阪歴史科学協議会(2004)
44)渡辺武館長退職記念論集刊行会編、大坂城と城下町、思文閣出版(2000)
45)伊藤 毅、近世大坂成立史論、生活史研究所(1987)
46)五木寛之、日本人のこころ 京都 大阪 宗教都市・大阪 前衛都市・京都、講談社(2005)
47)永島福太郎、中世畿内における都市の発達、思文閣(2004)
48)井上 薫編、大阪の歴史と文化、和泉書院(1994)
49)加地宏江、中原俊章、大阪文庫9 中世の大阪-水の里の兵たち-、松籟社(1984)
50)河根能平、大阪の中世前期、清文堂(2002)
51)永島福太郎、中世畿内における都市の発達、思文閣(2004)
52)塚田 孝、日本の歴史 近世の都市社会史-大坂を中心に-、青木書店(1996)
53)塚田 孝、歴史のなかの大坂-都市に生きた人たち-、岩波書店(2002)
54)塚田 孝編、大阪における都市の発展と構造、山川出版社(2004)
55)塚田 孝、吉田伸之編、近世大坂の都市空間と社会構造、山川出版社(2001)
56)布川清司、近世町人思想研究-江戸・大坂・京都町人の場合-、吉川弘文館(1983)
57)財団法人大阪国際交流センター編、大阪の国際交流史、東方出版(1991)
58)脇田 修ほか編、国際フォーラム 近世の大坂、大阪大学出版会(2000)
59)脇田晴子、改装日本商業発達史の研究、御茶の水書房(1977)
60)佐々木銀弥、叢書・歴史学研究 中世商品流通史の研究、法政大学出版局(1972)
61)豊田 武、改訂 中世日本商業史の研究、岩波書店(1952)
62)宮本又次、日本經濟史、日本評論社(1956)
63)宮本 又次、日本歴史新書 大阪、至文堂(1957)
64)作道 洋太郎、教育社歴史新書88 江戸時代の上方町人、教育社(1978)
65)林 玲子、近世の市場構造と流通、吉川弘文館(2000)
66)安藤精一、藤田貞一郎編、市場と経営の歴史、清文堂(1996)
67)岡崎哲二、経済学コア・テキスト&最先端7 コア・テキスト経済学、新世社(2005)
68)武部善人、大阪産業史 復権への道、有斐閣選書(1982)
69)イヌイ株式会社社史編纂委員会、イヌイ株式会社90年史、イヌイ株式会社(2008)
70)奥野製薬工業株式会社編集・発行、創業百周年記念誌・想100年のあゆみ、奥野製薬工業株式会社(2006)
71)塩野香料株式会社、塩野香料株式会社200年のあゆみ、塩野香料株式会社(2010)
72)小川香料株式会社、小川香料百年史、創元社(1993)
73)清水藤太郎、日本藥學史、南山堂(1949)
74)羽生和子、江戸時代、漢方薬の歴史、清文堂(2010)
75)宗田 一、渡来薬の文化史 ― オランダ船が運んだ洋薬 ―、八坂書房(1993)
76)吉岡 信、近世日本藥業史研究、薬事日報社(1989)